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【ぶんか】もっと知りたい!西国三十三所観音霊場めぐり

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西国三十三所観音霊場とは?

西国三十三所観音霊場は、日本の仏教の巡礼のなかで、いちばん古い巡礼です。
観音様をおまつりしたお寺を、「観音霊場」といいます。

  • 和歌山県3所
  • 大阪府4所
  • 奈良県4所
  • 京都府11所
  • 滋賀県6所
  • 兵庫県4所
  • 岐阜県1所

合計三十三所のお寺(観音霊場)を巡礼して回ります。
いろいろな場所にありますね。

この観音霊場を「札所」ともいいます。
一番札所は和歌山県の「青岸渡寺」で、三十三番札所は岐阜県の「華厳寺」です。
「華厳寺」は「谷汲寺」ともいいます。

▼ 一番札所青岸渡寺

▼ 三十三番札所華厳寺

西国三十三所観音霊場めぐりの始まりとその意味

観音霊場めぐりの始まり

現在八番札所となっている、奈良県の「長谷寺」があります。

そのお寺を開いた「徳道上人」という人が、
718年に病気で仮死状態になり、冥土で閻魔大王に会いました。

その時に閻魔大王から

「俗人(普通の人)たちは生前の悪行によって地獄に送られる者が多い。
俗人たちが観音霊場へお参りして功徳(よいおこない)を得て
地獄に送られないようにしなさい。」

とお告げを受けました。

つまり「観音霊場」参りは、閻魔大王からの指示なのです。

観音とは

仏教で最高の悟りの境地に達した仏を「如来」といいます。
観音は「如来」になれるように、修行を続けている仏です。
正しくは「観世音菩薩」といいますが、「観音菩薩」と呼ばれることが多いです。

なぜ三十三なのか

観音は如来になるための修行以外にも、
「衆生(俗人)」に積極的に救いの手を差しのべ、教化することも観音の重要な仕事です。

「観音経」というお経の中で、
観音菩薩は33通りの化身(姿を変えること)をして
我々俗人である衆生を救うと書かれています。

この観音経に書かれている三十三という数字から、
観音霊場を三十三所としたのです。

観音霊場巡りの始まりと停滞(止まってしまうこと)

閻魔大王からお告げの証拠となる宝印(仏の印)を授かり、徳道上人は現世へ戻りました。
この宝印は極楽往生の通行証となるもので、
その宝印を配る場所が観音菩薩の安置されているお寺です。

徳道上人は、観音信仰を進めようとしましたが、
すぐには世の中にその意図(気持ち)は伝わらず、巡礼は発展しませんでした。

徳道上人は 巡礼の 機が 熟するのを 待つため、
その宝印を兵庫県にある「中山寺」(現在二十四番札所)に 納めました。

徳道上人がその後80歳で亡くなったため、
三十三所巡礼は世間の人々から忘れ去られていきました。

観音霊場巡りの再興

徳道上人が閻魔大王から宝印を託されたときから270年後の988年に再び動きがありました。
当時「熊野詣」という「熊野三山」への巡礼が、盛んにおこなわれていました。

花山法皇が熊野詣をしたときに「熊野権現」が現れました。
そして熊野権現は、
「徳道上人が始めたのに、死後中断されてしまった観音霊場を再興するように」
とお告げをしました。

花山法皇はさっそく、中山寺で徳道上人が授かった宝印を取り出し、
三十三所巡礼をもう一度始めました。

そして熊野でお告げを受けたことと、
当時すでに熊野詣をする人が多かったこともあり、
熊野三山の一つである「熊野那智大社」に隣接する「那智山青岸渡寺」を第一番と定めました。

花山法皇が三十三所巡礼を再開されたことから、次第に観音霊場を巡拝する人が増えてきたのです。

西国三十三所観音霊場の定着

12世紀ごろの西国三十三所巡礼は修験者(山岳信仰の修行者)や僧侶などの宗教家によるものが多く、一般庶民がお参りすることは少なかったようです。

一般庶民に観音信仰が浸透し、いまのような三十三所巡礼も兼ねた 観音霊場巡礼になったのは、室町時代になってからといわれています。
特に江戸時代になると伊勢神宮に参拝する「お伊勢参り」が盛んになってきました。

伊勢からさらに西南に足を伸ばして熊野の那智山青岸渡寺に行き、
近畿二府四県の観音霊場をまわり、岐阜県の谷汲山華厳寺と、西国三十三所観音霊場巡礼をします。

三十三番の谷汲山を出た後は中山道を通って信濃の善光寺にお参りし、江戸へ帰るコースまでできたようです。

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